[思想]
2004.6.8  北川裕二

福田和也『イデオロギーズ』

ゲシュテルの「外部」

 本書『イデオロギーズ』(新潮社)は、「テクノロジーの外に、思想なり思惟なりといったものは存在し得るのか」、または「人間にとってテクノロジーの外部は在り得るのか、得ないのか」という問いを提起する。著者のこの問いは、次のように言い換えられる。すなわち、生の営みのすべてが、今や「全地球的なテクノロジー支配」の下でしか成り立たなくなっているのだとしたら、そうした支配の下でもなお、個々の経験を超えた超越的(超越論的)な視座の確保はいかに可能なのかと。このように捉え直してみると、本書が現代思想の枠組みを踏襲しつつ、それに対する問いを発していることがみえてくる。つまり著者の問いとは、近代的な主体のあり方を特徴づけるいわゆる<主体の分裂>、例えば主体を「先験的=経験的二重体」(フーコー)といった超越的(超越論的)なものと経験的なものとして捉える構図が、果たして現在においてもまだ有効なのかということであるようにおもわれる。それゆえこれは、哲学的主題の変奏であるといえるかもしれない。すなわち「先験的=テクノロジー的二重体は在り得るのか、得ないのか」。

 『イデオロギーズ』で取り上げられる各章のテーマは、人間が生の拠り所とする「諸観念」、当のものであるところの「テクノロジー」と、「暴力」「自由」「信仰」「愛」である。著者によればこれらは、「自らが無批判に受け入れてしまっていて、そのことを意識していない諸観念」であるということになる。生と死といった観念を別にすれば、「テクノロジーの外部は在り得るのか」といった問いを受けて、どれも真っ先に考察してみなければならないものだといえる。というのも、それらは各個人に単独的な観念である、と同時に、普遍的なそれでもあるようなものだからだ。各章のテーマの、「暴力」を革命に、「自由」を国家に、「信仰」を宗教に、「愛」を共同体にと書き換えてみれば、そのことがよくわかる。事実、各章の展開は、そうした二つの領野を、あたかも音楽のコード・チェンジのように繋げていく。この展開を作り出すことに著者は苦心しているようだ。それは、本書の場合の「外部」が、単独的/普遍的な観念に対するものであるがゆえに、二重に求められているからである。こうしたテーマをダイナミックに奏でるのは、おそらく読者の関心を<超越的(超越論的)視座>へと効果的に向けさせるためだろう。

 こうした観点から「テクノロジー」に始まり「暴力」「自由」「信仰」「愛」に終わる本書を眺望してみた場合、その最高峰はなんといっても「自由」の章だろう。その頂きの頂上付近にはカントの「定言命法」や「目的の国」が遠望される。しかし著者は、カントの三批判書に直接言及することはしない。むしろ思想家たちがそれをどのように解釈していったのか、その変遷を辿っていく。本書で取り上げられる思想家(哲学者、文学者)は、近代的な主体の分裂が自覚される18世紀から20世紀前半、カントからハイデッガーの間で活躍した者によってほぼ占められている。というよりも、その時代の哲学者、文学者にピントが絞られていくという構成になっている。巻頭から巻末まで、近代の、それら諸観念の分裂する過程を炙り出すという姿勢が、既述した二つの領野(単独的/普遍的な観念)を行き来することと合わせて、常に一貫しているのである。しかし、ここに解答はない。分裂の諸相だけがある。カントの「定言命法」や「目的の国」に関する著者の見解も避けられている。むしろそれら諸観念が、近代の相の下で、どれほど混沌としたものとなっているか。『イデオロギーズ』は、超歴史的なイデオロギーを「近代」という歴史的な舞台に引きずり降ろすのである。

 一方でそれは、「技術の惑星的制覇」(ハイデッガー [*1])が、数々の亀裂を走らせながらも「貫徹」されていく時代を扱ってもいる。読者はこのことを常に念頭においておくべきだ。さもないと、一体本書の基本的な問いがなんであったのか、うっかり忘れてしまう。基本的な問いとはこうであった。「人間にとってテクノロジーの外部は在り得るのか、得ないのか」。改めてこのセンテンスに注目してみると、『イデオロギーズ』の欠陥がぼんやり透けてみえてくる。つまり本書は「テクノロジー」<の>「外部」を問うたはずである。であるなら、まずはテクノロジーそのものについて、取り上げられた「諸観念」以上に丹念に論及されていなければならないはずだ。にもかかわらず、「外部」に関しては執拗に言及されていくのだが、前の「テクノロジー」または「テクノロジーの」に該当するものが、本書ではあまりにも疎かにされているようにおもえるのだ。

 「テクノロジー」の章を見てみよう。すると著者は奇妙な、短絡的とさえいえそうなふるまいをしでかしてしまう。この章では、ヴィーコを巡るアーレントとバーリンの解釈の「行き違い」について論じられた後、マリネッティ、モリス、ベンヤミン、ハイデッガーのテクノロジー観が比較される。著者が、マリネッティ、モリス、ベンヤミン、ハイデッガーを取り上げ、「この四人の議論を見れば、現代におけるテクノロジーにたいする大方は弁えたことになるだろう」と言っていることに注目しよう。次のような疑問を直ちに召喚してしまうからである。つまり、なぜマリネッティでありブルトンではないのか、なぜモリスでありグロピウスではないのか、なぜベンヤミンでありエイゼンシュタインではないのか、なぜハイデッガーでありデュシャンではないのか、といったように。問題はテクノロジーなのだから、彼らを取り上げてもいいはずである。あるいはもっと地味な、だが本書におそらく最も必須な近代から現代までの<技術史>を論じてよいはずである。というより、そうすべきだった。著者は、四人の「立場」を若干概観した後、こう云う。

 「区分けと系譜の乱暴さは分かっている。一つの思惟をいずれにしろ人生の形として作りあげた人物たちをある立場に集約する事が乱暴なら、その上にその立場らしきものを四辻において眺めるのはもっと乱暴だ。その乱暴さ自体を、これから腑分けしていく訳だが、とにかくひとまず現代思想というそれ自体殺伐とした世間を押しわたって行くためには、輪郭線を引くと決めた。決めたのは、決めねば何もはじまらないからだが、しかしはたして何をはじめようというのか。はじまったのは、行きあたりばったりの喧嘩沙汰に似たものだが、もとより一波乱起こす客気がなければ何も起こるはずがない。」(p29)

 どの作品かは忘れたが、なにやら漱石の小説の文体をおもわせなくもないもの謂いである。おそらく著者はここまで書いてきて、はたと気づいたのだろう、実のところテクノロジーに関して、ほとんど何も知らなかったということに。云えたとしてもせいぜいメタファーとしてのそれについてだけであるということに。にもかかわらず「テクノロジー」<の>「外部」という問題構成は死守したい。そのジレンマが、ひらきなおりともごまかしとも受け取れるこのパラグラフから読みとれる。「テクノロジーなんか知らなくたって「テクノロジーの外部」は書けるもん。どのみち「現代思想」なんか「それ自体殺伐とした世間」なんだから、へっちゃら、へっちゃら」ということなんだろうか。おそらくそういうことなのだろう、著者がそう云っているのだから。つまり、このジレンマが『イデオロギーズ』の論理展開の無理を露呈する。と同時に、<技術史>は隠蔽される。現代のテクノロジーを理解するにあたって、それが繙かれるということはない(マラパルテひとりではいかにも頼りない)。

 このような疑問はどの章を読んでも消えない。しかしこの疑問は、著者が各章で取り上げるテクノロジー、つまり遺伝子工学やコンピュータのハッカー、あるいは携帯電話の出会い系サイトから最新の軍事システムなどといった現代の「テクノロジー自身の生理」と「近代」の思想とを接合させようとする無理から直接発せられてくるものだ。このジレンマ、無理が、最後の「愛」の章ともなると滑稽なほどに露呈してしまうのである。アウグスティヌスの『創世記注解』におけるアダムとエバの「善意の配慮」のエピソードから始まるこの章は、「アウグスティヌスやロレンスが禁じた、人と人との強固な結びつきとしての愛、人と人が繋がり、理解し、信頼することではなく、その身体に触れたり、会話をしたり、連れ歩いたりすることを楽しみ、喜ぶような愛がありうるのではないか」という問いを発した後、アウグスティヌスや『チャタレイ夫人』のロレンスのそれとスピノザの「喜び」としての「愛(フィリア)」が対置され、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の第二部『スワンの恋』の愛のあり方にその多くを割くという構成をなしている。

 「喜ぶ力」としての愛は、同様にまた、虚栄とも分かちがたくつながっている。快楽の追求は、それが進めば進むほど研ぎ澄まされた感覚と蓄積によって、洗練を余儀なくされるが、この洗練はきわめて社交的なものであるとともに、他者への優越、趣味における洗練度の上位としての高貴さへの執着を通して、他者をさげすみ、分断し、無意味なことのために富を蕩尽する、人類の歴史を進歩や有意義なものとみなす人々にとっては、まことに虚栄は、もっとも愚劣な感情であるだろうが、またすみずみまで文明化された世界における最後の人間的なものであり得る。」(p239-240)

 こうした複雑で分裂した愛の様相をスワンに代表させ、スタンダールの『赤と黒』のジュリアン・ソレルのそれなどと比較していくわけだが、いささか長いと言わざるを得ない『スワンの恋』の例を上げながら著者は、この「最後の人間的なもの」という箇所が『失われた時を求めて』においては、「遅延」という問題に置換されると指摘する。

 「だが、プルーストの恋人たちは鉄道の時刻表を点検するような手付きで恋愛を扱っている。自分の乗った列車が、小さな街の停車場を、しかしかつては風光明媚であることで高名で、その沿線では随一という景観をかいま見せてくれる駅を気づかずに通過してしまうことを心配するようにみずからの情熱を眺めている。彼がことさらに遅延しなければならないのは、遅れることだけが、速度に抗うことだけが、距離を、距離のようなものを現出させると思われるからだ。」(p266)

 「第一次大戦後になっても、「馬なし馬車」と呼ばれた時代の古めかしい自動車を用いることに執着したプルーストは、その点で、速さの時代における遅延の先駆者であった。交通網の発達によって空間の意味が劇的に変化しつつあった時代──とくに遠さ、広さの収縮という変化──における時間の意味の増大についてプルーストほど意識的であった作家はいない。その点で彼は、まぎれもないマリネッティの同時代人であり、その問題意識はほぼ共通のものだった。」(p263)

 プルーストとマリネッティの「問題意識」が「ほぼ共通のもの」だったのかどうかはここでは問わない。奇妙なのは、このプルーストの「遅延」が、突然ノルベルト・ボルツという現代ドイツの思想家によるメディア論を介して、「出会い系サイト」など現代のコミュニケーションに飛躍してしまうことだ。なぜプルーストの「遅延」の後で、ノルベルト・ボルツのメディア論が突如要請され、「出会い系サイト」でなければならないのか。その間の、テクノロジー及びメディア論がズッポリ抜け落ちているのである。著者によれば、それはボルツがハイデッガーの「時間論」を高く評価しており、「出会い系サイト」のようなコミュニケーションの形態こそ「空間が無意味になった」ことを示すからだそうだ。つまり『イデオロギーズ』は、「テクノロジー自身の生理」を論じるにあたって、「近代」の技術史を丹念に顧みることをせず、思想史と現代のテクノロジーを巧妙につなぎ合わせ、「テクノロジー」「暴力」「自由」「信仰」「愛」のどれもが、どのみちハイデッガーの下に収斂することを狙っているのである。ゆえに、ハイデッガー風に云えば、技術史は、赤裸々に忘却されている。

 こうしたトリックが見えてしまえば、「テクノロジー」の章の、「つまりは人間にとってテクノロジーとは詩にほかならない」という声高なアジテーションも虚空に空しく響くだけのものとなる。というのも、著者にとってのテクノロジーとは、詩であるほかないからである。アドルノのアフォリズムを書き換えた「アウシュヴィッツは詩なのだ」という挑発的でスキャンダラスなフレーズ自体、上の反復でしかない。それゆえ月並みなパロディとしての茶番以外の何物でもない。そういった意味では、福田和也とはまさに「近代」的な批評家なのだろう。以上のことを承知した上で、『イデオロギーズ』を繙けば、学ぶべきことはある(役立つかどうかは別として)。それは、いわばゲシュテルの此岸での、もがくような主体の分裂そのものである。

*1 1949年、ブレーメンでの『有るといえるものへの観入』という高名な講演において、第二次世界大戦後としては、はじめてその姿を公にしたハイデッガーは、全世界が技術(テクノロジー)にかり立てられていく「危機」について言及している。ありとあらゆる物が、他の物によってかり立てられ、またかり立てるという現代の技術の「挑発」的な連鎖=自己運動についてである。例えば「水力発電所は、河川の流れのなかへ立てられている。発電所は河川の流れをその水圧に向けてかり立て、この水圧がタービンをかり立てて回転させ、この回転によって機械がグルグルと駆動し、この伝導装置が電流をかり立て、これによって長距離送電所とその回路網が電力輸送へとかり立てられている」。

 ハイデッガーによれば、この「かり立てる(stellen)」という働きこそ、現代の技術の本質にほかならない(したがって「技術の本質それ自身は、何ら技術的なものではない」と彼は云う)。このような技術の、物を「徴用してかり立てるはたらき」の総体を、彼はゲシュテル(Ge-Stell=総かり立て体制)と呼ぶ。すべてが、このゲシュテルという働きに「かり立てられ」、その外部に存在することはできない。なぜならゲシュテルにおいては、すべてがやがては徴用される在庫と見なされるからである(それを彼はベシュタント・シュトゥック(Bestand-Stuck=徴用物資の総量を構成する断片)と呼ぶ)。ゲシュテルからすれば、世界ないし地球とは、「常に既に」徴用される断片としての全在庫のことにほかならない。「彼らは、死体製造のために徴用された物資の総量を構成する断片となる。それは、死ぬことなのか。彼らは、絶滅収容所で目立たずひっそりと粛清される」(『有るといえるものへの観入』「危機」p72-73)。

 『イデオロギーズ』では、ゲシュテルに関する言及はないが、著者が後期ハイデッガーの思想を基にしているのは、火を見るより明らかである。

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