| 2003.05.15 王寺賢太 | ||
勢力不均衡 |
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| この奇妙な戦争状態について | ||
1. |
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| 2001年9月11日のテロは、北米や西欧や日本の住民たちの平和と繁栄のよってたつ軍事的・政治的・経済的な圧倒的な勢力不均衡の存在を明からさまに示した。実行者たちの意図にかかわりなく、ニューヨークの世界貿易センターとワシントンのペンタゴンを狙い撃った自爆攻撃は、アメリカ合州国の覇権が象徴する勢力不均衡に対する敵意を剥き出しの暴力としてつきつけるものにほかならなかった。この暴力を前にして、資本主義社会の勝者たる北の「平和」と「繁栄」は、それがかろううじて自己の外部に排除し抑圧して来た(あるいはそう信じて来た)暴力と貧困の存在を自らの内側に拡散された形で囲い込み、「社会状態」のただなかで不断の、奇妙な「戦争状態」を生きさせられることになったのだ。 だが、そのテロが圧倒的な勢力不均衡を与件として生まれた異義申し立てであった以上、それが露呈した奇妙な戦争状態は、軍事的・政治的・経済的な圧倒的な権力を保持する者にその権力行使と拡大のための格好の口実を与えるものでしかありえなかった。「治安」や「自由と民主主義」の守護者として自らを名指す合州国およびその同盟国が、「大量破壊兵器」を思う存分に使用して展開したアフガニスタンやイラクへの侵略は、小ブッシュおよびその子犬たちの意志を如実に示している。反テロリズム戦争というスローガンにもかかわらず、彼らにはテロリズムを根絶する気などありはしないのだ。ビン・ラディンは幾度死に、幾度蘇ったか?テロの黒幕であるらしいフセインは一体どこに消えたのか?そもそもアラブ諸国を押さえ込み、イラクに攻め込むことがテロの根絶に繋がると彼らは本当に信じているのか?そうではないだろう。むしろテロの危険を希薄にしかし全面的に拡散し、自分たちが死なない程度に適度にコントロールしながら、不断の奇妙な「戦争状態」を北の直中に創造し続けること、そしてそこから生まれる不安に世界的な勢力不均衡の一層の拡大の契機を見い出すこと、それこそが彼らの望むところなのだ。そのためにアフガニスタンやイラク、あるいは合州国で、何人死人が出ようが彼らの知ったことではない。小ブッシュははっきりと宣言している。イラクにおける戦闘は終わった、しかし反テロリズム戦争は終わっていない。むろん、小ブッシュにはこの戦争をみずから終わらせるつもりなどないのだ。 たしかに、合州国および同盟諸国のイラク侵略は、世界的な規模での反対運動を引き起こした。フランスのテレビでは、アジアや、中南米や、オーストラリアや、ヨーロッパ諸国での反戦デモが、連日これ見よがしに報道されつづけた。なにか政治的な事件がおこればすぐに数百万人が街中に飛び出して来るローマや、年中なんらかの紛争を創り出しては街頭でのデモを組織するパリはともかく、純朴で従順なベルンのスイス人たちも、あるいは社会運動の経験など持ったこともないようなマドリッドのスペイン人たちも、辛抱強く反対運動を繰り返していた。実際、戦争の始まる以前からこれほどの規模で反戦運動が世界中で組織されたことはかつてなかっただろう。あるいはまた、アフガニスタン侵略の際にはまだ合州国との同盟を保持していたフランス、ドイツ、ロシア、中国をはじめとする諸国の政府は、イラク侵略に関しては明確な反対の意志を表明した。とりわけ今回の世界各国の反応のうちで特筆すべきなのは、ブラジルやアルゼンチンをはじめ従来合州国に従属してきた中南米諸国の政府が、はっきりと合州国に否を突きつけたことだろう。日本を含め世界中の八十数国に軍事力を展開しておきながら、合州国が五十数国の支持しか集められなかったという事実は、合州国への権力の集中に対して世界の大多数の国が反対の意志を表明したということを意味している。これらの観点からすれば、見かけの合州国の覇権はすでにほころびを見せ始めていると言えるのかも知れない。 「合州国」(あるいは「小ブッシュ」?)という記号を与えられて一気に凝集する「多数者」(ホッブスーネグリ)の対抗運動の興隆?あるいは「合州国」を基軸として再編された友・敵関係による新しい世界秩序の曙?しかし、現在の合州国の覇権主義が奇妙な戦争状態の全面化と圧倒的な軍事力の不均衡を背景にして展開されているものであるだけに、事態はそういった楽観を許さない。現に、合州国および同盟諸国はイラク侵略を断行し、決して敗北することのない戦いを戦って当然の勝利をおさめ、イラクの解放者としてふるまっている。民族的・宗教的対立をこえた国民国家としての統一をかろうじて軍事独裁によって保って来たイラクで、日本においてかつて成功したような非武装化、従属国化、そして「民主化」を合州国が簡単になしとげることができるとは思わないが、その問題はここでは問わない。むしろ、私たち自身が置かれている次の状況をはっきりと確認したい。合州国や同盟諸国での連日の反戦運動のいずれも、それぞれの政府の戦争支持の姿勢を変えることはできなかったし、世界中の反戦運動も合州国が規定の侵略戦争への道を淡々と歩むことをさまたげることはできなかった。そしてまた、国連を始め世界各国の反対についても同様だった。「多数者」の対抗も諸国家の反対も、合州国の強者の論理を前にして無力だった。つまり「自由と民主主義」をかけ声に行われたイラク侵略の銃後で、私たちの「自由と民主主義」は、それに枠組みを提供して来た「国民国家」とともに、より一層の形骸化を進めた。そもそも、いま誰がこれらの言葉をなんの恥じらいもなく使うことができるだろうか?だが、問題は、まさに奇妙な「戦争状態」の維持と合州国による暴力の行使の自己正当化が、社会的諸関係の次元で生まれるさまざまな諸紛争の次元を単純化することによって、今ここにある私たちの生活の様式自体に圧迫を加えつつあるということにある。 |
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2. |
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| ここでは合州国ではなく、今回の合州国の戦争に対する断固とした反対によって一躍勇名を馳せたシラクのフランスの例をとって考えてみよう。こと戦争反対の一事をとれば、私個人も九割近いフランス国民とともにシラクのとった選択を支持する。フランス自身がイラクに持つ経済的利権の保護、ヨーロッパ最大のムスリム・コミュニティとユダヤ人コミュニティを抱え込んだ国内の治安維持、そして統一ヨーロッパを経済的のみならず軍事的・政治的なひとつの軸として合州国に対して立てようとする政治的計算がシラクにあったことは疑いえないが、それらすべてから割り出された今回の立ち居振る舞いは、いかにも近接する隣人たちとの外交関係の中で揉まれ続けてきた「古きヨーロッパ」の政治家の面目躍如だったとひとまず言うことができる。しかし、まさにそのシラクのレアルポリティークが、フランスおよびヨーロッパを合州国の対抗軸に押し上げてみせることによって、フランス内外の諸紛争を隠蔽したことを見のがすことはできない。フランスはすでにコートディボワールの国内紛争に際して「治安」維持と現地のフランス人の保護を名目として派兵を行っていたが、それに対する批判はフランス国内ではほとんど聞かれなかった。また、EU入りを控えている東欧諸国が今回一様に合州国の支持に回った背景には、EUの政治的・経済的実権を握る仏独に対する正当な警戒があったことも認めなければならない。そして国内においては、いわゆる「新自由主義」の立場から、教育機関経営の地方移転(これは国内の教育条件の普遍性を維持するというフランス共和国の基本方針の根本的な見直しを図るものだ)や年金の減額・支給年限の切り下げが推進され、それに対してすでに労働組合などから反対運動が組織されつつあったのだが、その問題も反米気運の中ですっかり後景に退いてしまった。そしてフランス国内でもまたちょうど合州国が国外に軍隊を使って行っているように「治安」維持を名目として警察の動員が続けられている。だがその強硬な政策は過半数のフランス国民の政府支持の理由にこそなれ、まともな批判の対象となっているようには見受けられないのだ。 イラクでの戦闘の終了と前後して、フランス・ドイツ・ベルギー・リュクサンブールの四国はヨーロッパの軍事力の統一を呼び掛けた。シラクはそこで、合州国一国の軍事的覇権に対抗して、合州国に加え、ヨーロッパ・インド・中国・南米がそれぞれの軍事力を整備して成立する、「諸帝国」の群雄割拠による新たな勢力均衡の展望を提出している。そもそも内部にさまざまな分裂を抱え込んだ現在のヨーロッパがひとつの軍事的軸として成立するのかどうかさえ怪しいのだが、ここでシラクの展望の可否は問わない。ただし、現時点で、ヨーロッパ・ロシア・中国らに合州国に軍事的に対抗しようとする意志が存在していることは確認しておいていいと思う。そのことはとりわけ、合州国の独占ではないにしても圧倒的な優位が伝えられている軍事衛星およびその衛星を介した攻撃のための情報管理・伝達システムの開発・推進にこれら「諸帝国」が躍起になっていることからもうかがわれる。ヨーロッパではすでにイギリスの撤退で御破算になった仏・独・英の軍事衛星開発のプロジェクトが存在したし、ロシアは四月末に単独で新たな軍事衛星を打ち上げている。そして今年中には中国が始めての有人宇宙飛行を実現する予定であるという。合州国の軍事的な優位に対して対抗し、世界規模での軍事的な勢力均衡を達成するためには、まずその超越者の視点に到達する必要があるというわけだ。だが、こうした「諸帝国」の求める軍事的な勢力均衡は、私たちの置かれている奇妙な「戦争状態」にとどめをさすものとはなりえない。なるほど、合州国の覇権はそれによって制限を加えられることになるかも知れないが、そこで成立する勢力均衡は、資本主義社会に存在する圧倒的な軍事的・政治的・経済的な勢力不均衡を消去するものではありえないからだ。 フランスに視点をかぎるなら、「治安」の維持を基軸とするシラクの基本政策が、「新自由主義」的な経済政策(福祉国家からの離脱とEU市場の拡大)とともに、「軍事の職業化」という名前で呼ばれる徴兵制の撤廃と期を一にして現れたことに注意する必要があるだろう。つまり、「治安」維持の政策は、市民社会の完全な脱軍事化と国家への暴力の集中を背景として、従来ならば「社会問題」の範疇で語られていた諸問題(スラム化し、移民の集中する郊外における犯罪や学校における暴力の増加の根底に貧困や差別の問題があることは疑いえない)をすべて法に対する違反とそれへの取り締まり、ないし違反の「予防」という警察権力の行使の問題に還元することによって成立している。それは、一方で安価な労働力としての移民および貧困層を絶対に必要とする現在のフランスにおいて、彼らを国内産業に必要なだけ搾取しつつ、「生かさぬように、殺さぬように」国内に飼いならすということを意味している(それでもまだフランスの労働者は、移民を含め、労働ヴィザがとれれば最低限の社会保障を受けられるので、その点、移民が労働ヴィザをとることすら難しい日本とは格段の格差があるのだが)。そして、フランスにおいて「治安」の維持を高唱する現政府のプロパガンダが、ムスリム系住民を不断に「イスラム原理主義」の危険と結びつけながら、イデオロギー的・実力的に囲い込む様相をとっていることを考えるなら、ここにもまた9・11のテロの国家による纂奪の一例を認めることができるのだ。つまりシラクが国内政治において再三強調する「治安」維持は、ちょうど小ブッシュが国際舞台において強調する「反テロリズム闘争」と同様の役割を果たしている。そして言うまでもなく、共和国の守護者として、「ファシスト」を大差で撃ち破って選出されたフランス大統領は、フロリダ州選出の合州国大統領と同様、現在の国民国家における代議制民主主義のまったくの機能不全を象徴する人物に他ならなかった。経済的統一を果たしたEUが、ヨーロッパ規模での政治体制を備えるにいたっておらず、諸国の政府の力関係で政策決定がなされているというのが現状である以上、その軍事力の統一は、だから、このフランスの現状をヨーロッパ規模に拡大するだけだろう。つまり、ヨーロッパ「帝国」内部における「多数者」と執行権力の間の、圧倒的な勢力不均衡の拡大がそこから帰結するほかない。そしてまさに「合州国」と残りの世界の間に存在する圧倒的な勢力不均衡の裏面に存在する、このもうひとつの圧倒的な勢力の不均衡こそ、私たち自身が今生きさせられている問題である。 |
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3. |
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| ことが、超国家的な主権による軍事的・警察的な暴力の独占と、奇妙な「戦争状態」を礎としたその暴力行使の自己正当化にある以上、私たちの置かれている状況は楽観を許さない。ここで、暴力を個人の側に取り戻すという選択はすでに断たれている。それはテロリストの罠にはまり、「反テロリスト戦争」と「治安維持」を高唱する現在の国家の暴力行使に格好の口実を与えるだけだ。徴兵制の廃止は、核爆弾という「最終兵器」の発明と、空軍力の登場と軍事技術の専門化という技術的な背景をも持った不可逆な過程だし、いうまでもなく国民皆兵の制度は、市民への国家の独占する暴力の配分のみならず、市民社会の中に軍隊的な「規律と秩序」を設立し、同時に市民=兵士=男性と老人、女性、子供を階層づける近代国家の権力装置として機能し続けて来た。そこにかえることはなんらの解決とはなりえない。それでは私たちは、暴力を独占し、その行使を自己正当化しつづける国家のもとに臣従しつづけるほかないのか? ここで今一度私たちは、9・11のテロが開示した軍事的・政治的・経済的な圧倒的な勢力不均衡と「社会状態」の直中に現れた奇妙な「戦争状態」に立ち返る必要がある。アフガニスタンとイラクへの合州国およびその同盟諸国の侵略戦争がはっきりと示したように、その「戦争状態」は現在、超国家的な主権の維持と拡大に奉仕し続けている。そもそも、ホッブス以来、「戦争状態」はつねに、その暴力にとどめをさす、より一層暴力的で強力な主権を呼び出すための道具として使われ続けて来た。現在、合州国やフランスで高唱される「治安」というキーワードは、まさに主権の側からなされた「戦争状態」の纂奪の一様式に他ならない。だとすれば私たちは、カントのように「戦争状態」を「永遠平和」の方に向かって越えて行くことを望むべきだろうか。おそらくそうではない。ホッブスが示した人間の自然状態としての「戦争状態」という概念は、言い換えれば、秩序が、あるいは人間と人間の間に存在する関係が、つねに紛争を孕んだ偶然的で外在的なものとして存在していることを含意しているからだ。つまり、それは現存する軍事的・政治的・経済的秩序がその秩序自体をつらぬく勢力の配分の外部になんらの根拠を持たない、つねに変改可能なものとして留まることを明示する概念なのだ。そこから導き出される帰結は以下のとおりである。「すべてのことをその欲するままに命ずるこの権利が最高権力に帰属するのは、それが実際において最高の権力を握っている間だけである。もし実際の権力を失えば、それはまた同時にすべてを命ずる権利をも失うのであり、かくてこの権利はそれを獲得し、かつ保持する力のある人あるいは人々の上に帰するのである。」(スピノザ)だとすれば、私たちは自分たちが今その中に存在している「戦争状態」を抑圧して平和で繁栄した「社会状態」を実現しようとするのではなく、「戦争状態」を主権の側からの纂奪に抗して別のやり方で生きる様式を発明しなければならないだろう。 私はだから、暴力を自分たちの手に取り戻せ、とは言わない。しかし、ある種の「力」を自分たちの手許に引き戻す必要があることはまちがいない。暴力を独占する主権に訴えて「戦争状態」を解決しようとするのではなく、まさに私たち自身がそのなかに置かれている諸関係の効果として捉え、その諸関係を変改しようとする力が必要である。勢力の均衡を宇宙へ向かって超越する視点の獲得に求めるのではなく、むしろこの地上での複数の視点の交錯の中にこそ求めるような力が必要である。この地上のさまざまな紛争やさまざまな闘争を統治し飼いならすべき対象として捉えるのではなく、まさに私たち自身がそこにとらえられてある諸矛盾そのものとして経験しうるような力が必要である。この奇妙な「戦争状態」とそれが露呈した圧倒的な勢力不均衡に決して目を背けずにそれを生きぬくような力が必要である。だが、私は少し抽象的になりすぎているようだ。より具体的に次のように言ってみよう。私たちには、希薄にしかし全面的に拡散された「戦争状態」を、「治安」の問題へと還元するのではなく、まさにその「戦争状態」の直中に「社会問題」を構成するような力が必要である。「治安」(あるいはもっと口当たりよく日本語で言うならば「セキュリティー」だろうか)という言葉は、現在、政治や経済などさまざまな次元の条件から生まれる「犯罪」や「暴力」を端的にその現象においてのみ捉え、それを暴力の行使によって解決しようとする主権に奉仕するイデオロギー的な機能を担っている。そのイデオロギーに対して、私たちは絶えずあらためて社会的諸条件を喚起しながら、「治安」をつねに他の言葉へと移動し、翻訳し続ける必要がある。戦争は別のかたちによる政治の継続である、という言葉が真実であるならば、「治安」の問題が提出される地点には現在の国家的・超国家的主権の臨界が現れているのであり、それに対して私たちは主権による暴力の行使もテロリストによる暴力の行使をもはぐらかす、別のかたちの闘争で答える必要があるだろう。そこに圧倒的な勢力不均衡のもとに置かれた私たちが追求しうる勢力均衡への道がわずかに開けている。 ローマ帝国の没落後のヨーロッパ近代の生み出した「勢力均衡」という概念は、普遍的で、不動で、政治的であると同時に道徳的でもあるような法と秩序の支配に対して、歴史に内在する多数の勢力の諸々の紛争と闘争から、ある共存の秩序が不断に創りだされ、不断に創りかえられるということを認めるところに成立した。たしかにポストモダンの世界は、「勢力均衡」の枠組みを提供してきた国民国家の存在自体を現在不確かなものとしている。しかし、その枠組みが大きな変化をこうむるあとにも、私たちの側に近代の開示した力はつねに留まっている。「合州国」に対する闘争だけでなく、また「諸帝国」に対する闘争だけでもなく、むしろ現在の私たちの生活を取りまくさまざまな次元の紛争と闘争を決して消去せずに保持し続けることが必要である。その内在的な諸々の紛争と闘争を回避するところに「自由」も「民主主義」もありはしない。 |
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